ZINEを仕入れるということの重さと、文学フリマをプロの逃げ場にしないために
個人の熱量が詰まったZINEを積極的に扱う書店が増える一方で、その裏側では厳しい選書基準と現実的な判断が常に求められています。FARMFIRMDESIGN & 本と羊の店主が、ZINEお持ち込みの現場と文学フリマのあり方について、率直に綴ったnoteが話題になっています。
ZINEや同人誌、インディー出版に携わる方々にとって、書店に自分の作品を置いていただくことは、ひとつの大きな目標である場合が多いでしょう。しかし、その裏側で書店主がどのような判断を下しているのか、私たちはどこまで理解しているでしょうか。
「本と羊」の店主は、こう問いかけます。「仕入れる」という判断は、決して甘いものではないと。
買い切りでZINEを仕入れるということは、その本の在庫リスクを店側がすべて負うということです。一冊一冊に店主の責任と覚悟が伴います。だからこそ選書は極めて厳しくならざるを得ません。店主は次のように述べています。
「『個人だから、多少のことは大目に』……そう思うことが、実は一番失礼なことかもしれない。」
この言葉は、作り手への優しさのつもりで甘い判断を下すことが、かえって表現者に対する敬意を欠く行為になり得ることを教えてくれます。では、私たち作り手は「本屋に置いてもらう」ことを、どれほど軽く考えていないでしょうか。ZINEを商業の場に預けることの重さを、私たちは本当に理解しているのでしょうか。
さらに店主は、価格設定や内容・ボリュームのバランスについても指摘をしています。売り込みに来た作り手に対して、こう伝えるそうです。
「損して得取れ。最初は価格を抑えてでも多くの人の手に届く努力を。いきなり本屋に置いたから売れると思わないでほしい。」
ここは文フリでもZINEフェスでもありません。ただの本屋です。お客様の多くは作者のことを知りません。数ある本の中で、無名のZINEに手を伸ばしてもらうことは奇跡に近いという現実を、私たちはどれほど真剣に受け止めているでしょうか。
また、デザインの完成度が高まる中でも、店主が最も重視するのは「人間臭さ」です。洗練された表紙よりも、「この人でなければ書けなかった」という切実な言葉や、不器用ながらも剥き出しの熱量に心を動かされます。外見の美しさだけを追い求めることに、表現の本質を見失っていないでしょうか。
もう一つの大きな問いが、文学フリマのあり方です。店主はこう問題提起しています。
「文学フリマを『プロの逃げ場』にしていないですか。」
「出版界には自由がないから文学フリマに来る」という考えを、店主は「三流の考え」であると厳しく指摘します。プロとは、制約の中でこそ自分の表現を貫く存在ではないでしょうか。「お膳立てされた自由」を求めていないか。文学フリマを「受け皿」や「逃げ場」として利用する限り、その場の本当の可能性を使いこなすことはできない、と店主は言います。
「ここでしかできない表現があるから選ぶ」のが一流であり、「あっちがダメだからこっちに来る」のは三流だ。
自費出版の自由は、同時に大きな孤独と責任を伴います。誰からも検閲されず、誰からも叱られない自由は、逆に「誰にも届かない自由」にもなり得るからです。環境のせいにして自由を探すことをやめ、どのような制約の中でも自分の表現を成立させる覚悟こそが、本当の「つくること」の始まりなのではないでしょうか。
店主の言葉は、作り手に対する厳しさと深い愛情に満ちています。甘えを許さない目線でありながら、最終的には「あなたの『どうしても伝えたい』という想いが、一番良い形で誰かに届くように」と願っています。
表現に携わる者は、改めて自問しなければなりません。
自分のZINEを、書店に「仕入れてもらう」価値があるものにできているか。
文学フリマや自費出版を、ただの居心地の良い逃げ場にしていないか。
そして、本当に伝えたい想いを、制約の中でどれだけ強く貫けているか。
この問いを胸に、一冊一冊を、より真摯につくっていくことが、作り手としてのあるべき姿勢なのかもしれません。
